張昭勸迎曹公,所存豈不遠乎?夫其揚休正色,委質孫氏,誠以厄運初遘,塗炭方始,自策及權,才略足輔,是以盡誠匡弼,以成其業,上藩漢室,下保民物;鼎峙之計,本非其志也。曹公仗順而起,功以義立,冀以清一諸華,拓平荊郢,大定之機,在於此會。若使昭議獲從,則六合為一,豈有兵連禍結,遂為戰國之弊哉!雖無功於孫氏,有大當於天下矣。昔竇融歸漢,與國升降;張魯降魏,賞延于世。況權舉全吳,望風順服,寵靈之厚,其可測量哉!然則昭為人謀,豈不忠且正乎!
(漢籍電子文献資料庫三國志 1221頁 ちくま6-354)
(漢籍電子文献資料庫三國志 1221頁 ちくま6-354)
孫権政権における元勲の宿老筆頭と言えば、張昭をおいて他にないでしょう。とは言えその張昭、孫権が帝位に就いた段階で、それまで授かっていた官位であるとか俸禄をいちど返上したのだそうです。それに応じて孫権、張昭に輔呉将軍という官位を新設して与え、更に婁侯食邑一万戸に封爵。ちなみに一万戸は三公クラスを遙かにぶち抜く食邑です。ただこの扱いはいわゆる名誉職であり、宰相としての大権を振るうような立場ではありませんでした。
このことについて、虞溥『江表伝』は張昭が周瑜や魯粛のような主戦論者をしりぞけ、曹操に降るべきと説いたことから孫権よりの信頼を損ね、大臣としての働きこそは認められたものの宰相と認められるには至らなかった、と語ります。
あーのねぇ、裴松之先生、首を突っ込まれます。
張昭が曹操への投降を薦めたのはまごうことなき忠義心のゆえ! というかそもそも張昭は漢の臣下としての孫策孫権を盛り立てることが第一義であり、呉の独立なんてものは元々度外視! だいたいあそこで孫権が張昭の進言を容れて降伏さえしてれば、そこで天下は統一されて戦乱の世は終わりになってたでしょ! 張昭が悪もんっぽく扱われてんのが不当! ありえませんから!
このことについて、虞溥『江表伝』は張昭が周瑜や魯粛のような主戦論者をしりぞけ、曹操に降るべきと説いたことから孫権よりの信頼を損ね、大臣としての働きこそは認められたものの宰相と認められるには至らなかった、と語ります。
あーのねぇ、裴松之先生、首を突っ込まれます。
張昭が曹操への投降を薦めたのはまごうことなき忠義心のゆえ! というかそもそも張昭は漢の臣下としての孫策孫権を盛り立てることが第一義であり、呉の独立なんてものは元々度外視! だいたいあそこで孫権が張昭の進言を容れて降伏さえしてれば、そこで天下は統一されて戦乱の世は終わりになってたでしょ! 張昭が悪もんっぽく扱われてんのが不当! ありえませんから!
裴松之先生は周瑜や陸遜が嫌いだと言われていますが、ここはさすがに「劉宋の公式な歴史観を動かすわけにはいかなかった」気配を感じざるを得ません。つまり儀礼的には魏が、心情的には蜀が正統国家であった、という歴史観です。どちらの意味でも正統と呼ぶわけにはいかない呉は、それでも張昭の論を採用さえすれば魏の配下に収まる可能性もあった。しかしそれを周瑜と陸遜が台無しにした。だから裴松之先生の解釈において張昭が至上の名臣でなければならず、周瑜陸遜が最悪の逆臣でなければなりませんでした。
この歴史観は、恐らく東晋簡文帝以降に一気に先鋭化したのでしょう。簡文帝は歴史の経緯を辿れば「簒奪者」と呼ばれてもおかしくはなく、ともなればその息子の孝武帝の代にいたり、東晋帝の権威が暴落したと思われます。そのぶん、権威を名分などで強引に糊塗する必要に駆られたのでしょう。これを裏打ちするかのように、晋書礼志では孝武帝の代で様々な儀礼がねじ曲げられていることを記しています。そして東晋の正統な後継者と称する以上、劉宋は東晋末期の歴史観もまた継承せざるを得ない。
つまり西晋〜東晋初期には呉を貶める必要はなく、むしろ称揚する必要があった(旧蜀旧呉を慰撫することを考えれば到底両国の記述を貶められるはずもなかったでしょう)のだけれど、孝武帝の代以降にいたって「五胡から連なる華北のクソどもなんぞ相手にもならない」「堯舜以来の皇統の継承者」をアピールすることが求められれば、もはやそれぞれの国の感情がどうこうと言い出す余裕もなくなります。呉の地に国がありながらも平然と呉の国の偉人(つまり周瑜や陸遜)を貶めるのには、もはや地元民の心情なんてまともに汲んでもいられない「鄙地に押しやられた、もと覇権者」の焦り、余裕のなさが感じられます。
この歴史観は、恐らく東晋簡文帝以降に一気に先鋭化したのでしょう。簡文帝は歴史の経緯を辿れば「簒奪者」と呼ばれてもおかしくはなく、ともなればその息子の孝武帝の代にいたり、東晋帝の権威が暴落したと思われます。そのぶん、権威を名分などで強引に糊塗する必要に駆られたのでしょう。これを裏打ちするかのように、晋書礼志では孝武帝の代で様々な儀礼がねじ曲げられていることを記しています。そして東晋の正統な後継者と称する以上、劉宋は東晋末期の歴史観もまた継承せざるを得ない。
つまり西晋〜東晋初期には呉を貶める必要はなく、むしろ称揚する必要があった(旧蜀旧呉を慰撫することを考えれば到底両国の記述を貶められるはずもなかったでしょう)のだけれど、孝武帝の代以降にいたって「五胡から連なる華北のクソどもなんぞ相手にもならない」「堯舜以来の皇統の継承者」をアピールすることが求められれば、もはやそれぞれの国の感情がどうこうと言い出す余裕もなくなります。呉の地に国がありながらも平然と呉の国の偉人(つまり周瑜や陸遜)を貶めるのには、もはや地元民の心情なんてまともに汲んでもいられない「鄙地に押しやられた、もと覇権者」の焦り、余裕のなさが感じられます。
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