裴松之先生の罵詈雑言劇場 - 又為虛錯――巻五十三 張紘

江表傳曰:紘謂權曰:「秣陵,楚武王所置,名為金陵。地勢岡阜連石頭,訪問故老,雲昔秦始皇東巡會稽經此縣,望氣者雲金陵地形有王者都邑之氣,故掘斷連岡,改名秣陵。今處所具存,地有其氣,天之所命,宜為都邑。」權善其議,未能從也。後劉備之東,宿於秣陵,周觀地形,亦勸權都之。權曰:「智者意同。」遂都焉。

獻帝春秋云:劉備至京,謂孫權曰:「吳去此數百里,即有警急,赴救為難,將軍無意屯京乎?」權曰:「秣陵有小江百餘里,可以安大船,吾方理水軍,當移據之。」備曰:「蕪湖近濡須,亦佳也。」權曰:「吾欲圖徐州,宜近下也。」

臣松之以為

秣陵之與蕪湖,道里所校無幾,於北侵利便,亦有何異?而云欲闚徐州,貪秣陵近下,非其理也。諸書皆云劉備勸都秣陵,而此獨云權自欲都之,又為虛錯

(漢籍電子文献資料庫三國志 1245頁 ちくま7-018)

解説

 呉の長老として張昭とワンセットになりがちな人物、張紘。実はぜんぜん違う系統のひとです。そんな彼の生涯最後の建言が、呉の首都を呉郡から秣陵に移すのが良い、というもの。ここで呉郡は長江の河口から南に下り、内陸ではあるけれど巨大な湖、太湖の側に位置する都市。対する秣陵は、いわゆる南京。長江沿いにある港町で、支流の流入もあるため多くの戦艦をかかえることもできる地勢。つまり、より「天下を取るにあたって攻勢に出やすい場所」に遷都をした、と言えます。
 この建言について、裴松之先生は『江表傳』『獻帝春秋』を引き解説されます。『江表傳』では張紘が「天子の誕生する運気のある地だ」と説得、更に荊州から訪問した劉備も秣陵が都を構えるのに適した地だとして孫権に推薦、こうして孫権は秣陵を都にすることを決めた、と書きます。一方の『獻帝春秋』では、劉備が呉から蕪湖に遷都すべきじゃね? と提案。ちなみに蕪湖は秣陵と同じく長江沿いの町ですが、やや上流に位置し、渡ったところで北方にすぐ出ることができるわけでもない地勢。あえて言えば、守りは堅いです。それを聞いた孫権、いやいや、というのです。あたしゃ北方に打って出たいねん、そしたら蕪湖より秣陵でしょ、と劉備の提案を突っぱねたのだそうです。
 裴松之先生、献帝春秋に対してがるると歯を剥きます。
 秣陵と蕪湖を較べてみて何の意味があるってんだ!? どっちも徐州に出るにあたって大して変わらんだろうが! だいたい本伝でも江表伝でも他人から秣陵遷都を勧められてんのに、なんで献帝春秋じゃ孫権が自分の意思で遷都しますとか言いだしとんのじゃ! この辺もデタラメ極まりない!
 

皆様のコメント

波間丿乀斎
 え、裴松之先生、徐州に出るのに秣陵と蕪湖が大して条件変わらないとか、本気で仰ってる……?

 秣陵は港を出て北上すればすぐ徐州に出られますけど、蕪湖は港を出てからしばらく北上しなきゃいけないし、だいたい蕪湖って長江を渡って、むしろ豫州方面に出るべき港ですよね? 明らかに基地としての性格違いますけど大丈夫?