裴松之先生の罵詈雑言劇場 - 斯近妄不實――卷九 夏侯玄

魏氏春秋曰:初,夏侯霸將奔蜀,呼玄欲與之俱。玄曰:「吾豈苟存自客於寇虜乎?」遂還京師。太傅薨,許允謂玄曰:「無復憂矣。」玄歎曰:「士宗,卿何不見事乎?此人猶能以通家年少遇我,子元、子上不吾容也。」玄嘗著樂毅、張良及本無肉刑論,辭旨通遠,咸傳于世。玄之執也,衞將軍司馬文王流涕請之,大將軍曰:「卿忘會趙司空葬乎?」先是,司空趙儼薨,大將軍兄弟會葬,賓客以百數,玄時後至,眾賓客咸越席而迎,大將軍由是惡之。

臣松之案:

曹爽以正始五年伐蜀,時玄已為關中都督,至十年,爽誅滅後,方還洛耳。案少帝紀,司空趙儼以六年亡,玄則無由得會儼葬,若云玄入朝,紀、傳又無其事。斯近妄不實

(漢籍電子文献資料庫三國志 301頁 ちくま2-222)

解説

 夏侯玄は夏侯淵の甥の息子。要は魏の宗族であり、またその洗練された振る舞い・発言から当時の人気者。ともなれば、いやでも司馬師や司馬昭から睨まれることになります。
 ただ、魏氏春秋ではそのきっかけが魏の大幹部である趙儼の葬儀の時にあった、というのです。その葬儀には司馬師司馬昭も参列していたのですが、あとから夏侯玄が現れると、人々がみな夏侯玄を出迎えんがために席を立って司馬師兄弟を無視した、それがきっかけで司馬師は恨みを抱くようになったのだ、と。器ちっさ!
 もちろん裴松之先生、一笑に付されます。
 はぁ、オマエ各出来事のタイミング理解してる? 趙儼は 245 年死亡。葬儀は洛陽。一方夏侯玄は 244-249 年の期間、関中勤務。そんな夏侯玄が 245 年に洛陽に出てくるなんて話があったら、そんなん帝紀にすら記載される事態だっつの。でもない。ないんだよ? ならどうやって夏侯玄が趙儼の葬儀に参列できるってんだ? はいはい妄想妄想虚報反対
 ほんに孫盛好きね先生……。

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