裴松之先生の罵詈雑言劇場 - 言為不審的――巻三十八 董允

襄陽記曰:董恢字休緒,襄陽人。入蜀,以宣信中郎副費禕使呉。孫権嘗大酔問禕曰:「楊儀、魏延,牧豎小人也。雖嘗有鳴吠之益於時務,然既已任之,勢不得輕,若一朝無諸葛亮,必為禍乱矣。諸君憒憒,曾不知防慮於此,豈所謂貽厥孫謀乎?」禕愕然四顧視,不能即答。恢目禕曰:「可速言儀、延之不協起於私忿耳,而無黥、韓難御之心也。今方掃除強賊,混一區夏,功以才成,業由才広,若捨此不任,防其後患,是猶備有風波而逆廃舟楫,非長計也。」権大笑楽。諸葛亮聞之,以為知言。還未満三日,闢為丞相府属,遷巴郡太守。

臣松之案:

漢晋春秋亦載此語,不云董恢所教,辞亦小異,此二書俱出習氏而不同若此。本伝云「恢年少官微」,若已為丞相府属,出作巴郡,則官不微矣。以此疑習氏之言為不審的也。 

(漢籍電子文献資料庫三國志 986頁 ちくま5-264)

解説

 蜀漢の後半、国を傾けたことで有名な黄皓ですが、董允が死亡するまでは頭を押さえ込まれ、好き勝手ができなかったと語っています。その董允がどれだけまっすぐな人だったかを紹介するにあたって、董恢と言う人物とのやり取りを紹介します。同姓ですが別系らしいです、面倒くさいね。ともあれ董允が当時大臣となっていた費禕らとともに出掛けようとしたとき、董恢が折悪しく表敬訪問に訪れてしまいました。年若く官位も低い自分が、えらい人の行楽を邪魔しての表敬訪問なんて、と董恢が尻込みするも、董允は士人と面会することこそが優先されるべきだ、と行楽の予定をキャンセルしてしまったそうです。
 これに関して習鑿歯『襄陽記』は、董恢の人となりを紹介します。諸葛亮存命時、まだ官吏のひとりに過ぎなかった費禕とともに孫権のもとに訪問。そこで孫権が費禕に意地悪な質問をしたところ、代わって董恢が即妙な回答をしました。これに孫権は大喜びし、帰国すれば諸葛亮もこいつやるなと巴郡太守に任命したそうです。
 裴松之先生、この記述にハテナ? です。
 習鑿歯殿は『漢晋春秋』でも孫権と費禕との対話を載せているが、そこでは別の人間が切り返しをした、と書いている。董恢ではない。というか費禕が尚書令にまで出世した頃の話を持ち出すのであれば、董恢の官位も巴郡太守以上、自身とて十分な高官になっているというのに、どうして尻込みなぞするだろうか? 習鑿歯殿の記述には不審なところが見受けられる。

皆様のコメント

波間丿乀斎
 ちくまが「不審的也」と「いいかげん」と訳していて、いやそれはいくら何でももとの字義を無視しすぎじゃないですかね……? とおもいまんた。