臣松之案
悳死於樊城,文帝即位,又遣使至悳墓所,則其屍喪不應在蜀。此王隱之虛說也。
(漢籍電子文献資料庫三國志 547頁 ちくま3-268)
解説
荊州は樊城を守る関羽に挑んだ于禁と龐悳。片や投降し、片や潔されました。この辺りの振る舞いの差が裴松之先生にとって気になるところであったのかもしれません。ともあれ殺された龐悳については曹操もその死を惜しみ、曹丕も墓前にて荘侯と諡する旨を伝えさせています。
王隠「蜀記」は、そんな龐悳の死体が蜀に安置されていた、と語ります。それで鐘会が蜀平定の際に奪還したんだけど、その様子はまるで生きているかのようだった、と。
ファ!? 裴松之先生、がるるします。いやいや樊城で殺されて、そんで曹丕だって墓参りしてんじゃん、どこに蜀に死体もってかれる謂れあるってんだおい! 王隠トバし記事書きすぎてねえか! とお怒りなのです。
帳慢様
これは関羽伝注:王隠『蜀記』の「龐会が関羽の子孫を殲滅した」という記事と合わせて読むことによって、裴松之の「虚説」発言がさらに味わい深くなりますね。